シンギュラリティは、かなりの衝撃です。あちこちで言及され、おとぎ話なんかではなく、相当程度ありそうな未来予想として扱われています。政府関係の文書にも言及が見られます。中学受験説明会で、シンギュラリティを用いて親子に対応を促すという動きもあるようです。
技術系の人たちは、「バラ色の未来」と捉える傾向がありますが、私には、そうは見えません。人類の終焉につながるのか、とも思いませんが。可能性がなくはないでしょうが、そのように決めつけるほどの根拠もありません。私にはよくわからない、というのが本当のところです。
私だけでなく、まず、ほとんどの人がそうではないでしょうか。人類にとって未知の世界です。わからないのがあたりまえでしょう。とはいえ、私たちが生きている間に、シンギュラリティが訪れるようです。30年後なら、生きている可能性が大きいです。そして、子どもたちは、まともにシンギュラリティに突入します。「だって、わかんないも~ん」でいいのでしょうか。
こういう問いを投げかけると、私の経験上、9割程度、次のような答えが返ってきます。「われわれ凡人には、そんな難しいことはわからん。政府(国、偉い人たち)がちゃんとしてくれるだろう」
今後あらためて書きますが、これは良くない態度です。良くないと断言します。自分にとって大切なことを他人に委ねるのは、もうやめた方がいい。シンギュラリティへの対策の第一歩です。
『いま世界の哲学者が考えていること』という本があります。
帯にはこう書かれています。
「いつまでも『哲学=人生論』と思っているのは日本人だけ!」
「人工知能、遺伝子工学、格差社会、テロの脅威、フィンテック、宗教対立、環境破壊……『世界最高の知の巨人たち』が現代のとけない課題に答えをだす」
この帯のテキストは、ちょっとあおりすぎですね。この本では、これらのテーマについて、「答え」は出していません。というか、出せないでしょう。推進側、抑制側の論点を整理し、見取り図を提供しているというのが、妥当なところでしょう。
テクノロジーに関するのは、人工知能と遺伝子工学です。クローン人間なんかも入ってきます。いずれも、人類の存在を揺るがしかねない問題が山積ですが、全体として、現状はどんどん進行中です。疑問や不安や中止すべき理由はいろいろとあるのですが、ブレーキをかけるための論拠はあまり確立されていません。ということは、技術革新は進み続けるようです。
でも、無分別に称賛するだけという態度は、危険です。
たとえば、SNSに関する議論で、「SNSは市民のためのメディアではない?」という項があります。SNSは、非常に効果的な民主化のツールであると同時に、非常に効果的な監視の手段でもあります。つまり、「一本のナイフはパンを切るためにも喉を切るためにも使用できるということですね」
また、バイオテクノロジーに関して「自然を変える技術だったものが、人間の自然を変えるようになり始めた」という議論があります。抽象的に聞こえるかも知れませんが、とてつもなく重い視点です。
テクノロジーは指数関数的な進化を歩み続けています。テクノロジーをどう使えば良いか、どう使うべきかという議論は、かえりみられていないようです。何ができるか、に終始しています。ここに、人文社会系の研究者が技術系の研究者と同等に関与し、社会を作り上げていけば理想的なのですが、いかんせん、我が国は、人文社会系を抹消しようという、秦の始皇帝の焚書坑儒にも似た暴挙に出ています。人文社会系は、権力への批判であったり、技術革新へのブレーキであったりという役割も重要な意義なので、稚拙な権力者からは邪魔な存在に見えるかもしれません。それこそ、人文社会系の範疇である歴史をみれば、人文社会系の知性を圧殺した国家は遠からず衰退あるいは滅亡していることに気づきます。
その意味で、現在の日本は、そうとうヤバイです。
が、ヤバイのは権力者の態度だけではありません。人文社会系の研究者には、そもそも技術系の研究者と対等に議論できるほどテクノロジーについて知見がないのです。テクノロジーが進めば進むほど、人文社会系にはついていけません。テクノロジーの独走がすでに始まっています。なんとかしなければいけませんね。
『いま世界の哲学者が考えていること』は野心的な本ですが、テクノロジーの進捗からすると、議論が追いつかないように見えます。すると、「いつまでも『哲学=人生論』と思っているのは日本人だけ!」というのは、ちがうでしょう。テクノロジーの是非を論ずることは不可能(間に合わない)で、結局、私たち人類は何なのか、を真剣に問わねばならないのではないかと思います。テクノロジーを止めるのではなく、どうすれば、人類が良い未来を迎えることができるのか、という問いです。