シンギュラリティは、私のような凡人には、どうもSFを越えた、マンガにもならないほどの突拍子もないオカルトに見えます。でも、現在進行中の状況を観察すれば、「うさんくさい話」と切り捨てることもできず、私よりはるかに知性も教養もありそうな人たちが話題に取り上げることからして、現実味のある話なんでしょう。
若い頃に愛読した『北斗の拳』なんて、核戦争後の世界を描いていますが、人体は今と変わりません。『ドラえもん』に出てくる未来も、文明はうんと進んでいるようですが、人体は変わりません。
シンギュラリティで最も衝撃を受け、最も受け入れるのが困難なカテゴリは、人体です。
今後、数年でコンピュータの性能が猛烈に向上し、物質を構成する原子のエネルギーをコンピューティングに利用すれば、1kgの何の変哲もない岩が、過去1万年間のすべての人類の思考に相当するコンピュータとなる、とのこと。すでに凡人には意味不明ですが、ようするに、何もかもが究極のスーパーコンピュータになる。らしいです。
そうなると、人間の脳は、石ころにまったく太刀打ちできなくなってしまう。らしいです。
でも、心配無用。らしいです。
コンピュータがナノサイズになり、脳の中を駆け巡り、脳と一体化し、脳の思考を助け、猛烈に人間の知能が向上する。らしいです。どんな知識でも経験でもダウンロードすれば、無限です。らしいです。さらに、他人のナノボットと通信すれば、遠隔地の人と、音声も文字も映像も無しにコミュニケーションできる。らしいです。私の知っている概念では、それをテレパシーと言います。超能力か心霊現象の類です。
そんなことになると、人類は石ころに負けずにすみそうです。(別に負けてもかまわないのですが)
ナノボットは体内をも駆け巡り、血液中であらゆる病気を防いだり健康維持に努めたりし、病気はなくなるそうです。らしいです。さらに、そういう猛烈な環境の変化について来られない「人体1.0」はまどろっこしく、そもそも消化器官すら必要なく、ナノボットが良きにはからってくれるので、人体は好きなものを好きなだけ食べればよく、そもそも食べる経験なら、実際に食べなくても脳内のナノボットがすばらしいバーチャル体験を提供してくれるので、そっちの方がよいということになり、食べるということすら必要なくなる。らしいです。
人体は、あらゆる器官や臓器を思うがままに作り替えることができます。らしいです。北斗神拳を2000年も伝承し厳しい修行をしなくたって、ぼくちゃん、ケンシロウより強いんだも~ん!
「おああ!! あたたたたーーっ!! 秘孔をついた。お前の命はあと5秒」「だいじょうぶ。ナノボットが修復したし」
あっちゃー!! マンガにすらならんやないか。
「大谷翔平の二刀流ってすごいよね。投げて165km、しかも強打者」
「それがどうしたん? ぼくちゃん、20刀流でも200刀流でもふつうにできるし」
あっちゃー!! スポーツにならへんがな!
このように、テクノロジーと緊密な関係になった人体を「人体2.0」と想定しています。心臓すらすでにあってもなくてもどっちでもよく、すべての臓器はあってもなくてもよい。らしいです。私の知っている概念では、それをサイボーグと言います。2030年代初頭(だいたい15年後ぐらい)のこと。らしいです。150年の間違いではないですよ。ドラえもんでもついてこられないかも。
ま、このへんまでは、凡人の私がなんとかかんとか幾多の困難を乗り越えて想像することができなくはないのですが。その先は、ちょっと。
シンギュラリティによると「人体は―2030年代から2040年代には―さらに根本的なところから再設計されてバージョン3.0になっている」
は?
人体2.0って「根本的なところから再設計」ではなかったの?
これを越えるのは、神になるってこと?
人体3.0は、すでに体も脳もなくてもよく、人間の精神をファイルとしてバックアップし、なんらかのハードウェアに移行すれば、理論的に寿命は無限となる。らしいです。
それがパソコンに例えられています。大多数の人は、パソコンを買い換える際、ソフトも同時に寿命を終えます。ところが、パソコンを自作し続けている私には、このへんはよくわかる話ですが、パーツを交換したり、パソコンそのものを別のものにしても、ソフトウェアを移行して、同じソフトを使い続けることは、ふつうに可能です。人体もそのようなものだと。つまり、精神をソフトウェアに例えています。
体はあってもなくてもいいし、脳もあってもなくてもいいし、どんなところにどんな形でも私は存在し続ける。らしいです。
これを、私が知っている概念では、魂といいます。魂は、肉体を宿ってこの世に存在し、死を迎えたら肉体から離れて魂だけの存在となる。
いや~、技術者って、すごいこと考えますね。そうそう、この人体3.0って、私の知っている言葉では、こう言えそうです。
「おまえはすでに、死んでいる」