「大きいことはいいことだ」という時代が行き詰まり、絶対的に強かったはずの大きな会社が傾いたり破綻したりという信じがたい現象がおきたのも、1990年代です。絶対安定だった自民党が下野したのもこのとき。世界を見渡しても、ソ連が崩壊して共産主義圏があっという間に消滅し、核戦争による人類滅亡が真剣に案じられた冷戦が「あれは何だったの?」と言いたくなるような終焉を迎え、ベルリンの壁もあっけなくとりはらわれました。
そして、大きな組織が、その大きさをもてあますようになり、ベンチャーがもてはやされるようになりました。そして、それまでは影も形もなかった企業や業種が急成長をし、巨大産業だった製造業が斜陽に入りました。
と、見てくると、あるイメージとダブります。繁栄を誇った巨大な恐竜が一気に絶滅し、小さな哺乳類がとってかわったことです。恐竜の絶滅は、隕石の衝突によるものとされていますが、『生物と大絶滅』(スタンレー)は、それに異を唱えます。恐竜は、数百万年かけて少しずつ絶滅への道を進んでいき、隕石が最後のとどめだったというのです。隕石がなくとも、絶滅は避けられなかったといいます。地球上で起きた5回の大絶滅の原因は、寒冷化であるとしています。化石から、そのように分析できるとのこと。
徐々に進む環境の変化と、急激な環境の変化の2つが恐竜を滅ばしたとするなら、1990年代をはさんで起きた世界の動きも、そのように見ることができそうで、なかなか面白いです。そもそも自然界の現象と人間社会をごっちゃにしてもよいのか、という指摘はいつものことですが、逆に、人間社会を自然界から切り分ける理由を問うなら、それもまた見出せないはずです。
急激な変化は、国内ではバブルの崩壊、世界では共産主義圏の崩壊と冷戦の終結でしょう。偶然かどうか、ほぼ同じ時期です。徐々に進む環境の変化に目を向けると、見え方が変わります。「偶然」という視点は、あまり好ましくないと思います。偶然で片づけると、思考停止に陥るからです。「神の思し召し」ですべてが片付いてしまうのと同様です。
ノストラダムスの大予言では、1999年7月に(おそらく第三次世界大戦の核戦争によって)人類が滅亡するとされ、今から思うとバカみたいですが、当時の人々は真剣に人類の滅亡を恐れ、論じていました。国内でも、ノストラダムスの大予言にかかわる番組がときどき放送されていました。そして、国内でも、バブルの加熱に伴い、拝金主義に対する不安がじわじわ育ちつつありました。金が第一、環境も福祉もあとまわし。ほんとうにそれでいいのだろうか、なにかおかしくないだろうか。このままでは人類の滅亡がありうるのではないか。お金を追い求める人たちは、知ったこっちゃありませんが。
徐々に生じる変化は、なかなか目に見えるほどの動きにはなりません。とくに、国の指導者たち、巨大な経済のリーダーたちは、そのような底辺のじわじわした動きをとらえることが難しいようです。だから、何も対応しない。対応したとしても、徐々に進む変化を過小評価する。そしてそれが、ある臨界点で一気に動く。
人間社会の歴史では、一気に世の中が変わったという転換点が、大小を見ると、かなりあります。そのときの要因は、徐々に進む変化と、何らかのトリガー(急激な変化)の両者で見るべきではないかと思います。多くの場合、歴史はトリガーばかりに注目し、徐々に進む変化はスルーされがちです。徐々に進む変化とは、民衆の側での言葉や形になりにくいエネルギーや情念や行動の変化であり、なかなか記録に残っていなかったり、証拠をたてにくかったりします。しかし、どちらかというと、トリガーよりも徐々に進む変化の方が、大きな役割を果たしているように思います。
生物の進化というと、ダーウィンの進化論に異議を唱えた今西錦司さんの『進化とは何か』が非常に興味深いのですが、さすがに私から見ても「ちょっと、やばいんちゃう?」と言いたくなるほどきわどいところを言っています。進化には目的がある「合目的的進化」だとか「変わるべくして変わる」とか。その主張、すごくよくわかるんですが、一歩踏み込むと、「それは、神?」とつっこみが入りそうな・・・
今西進化論を評じた書籍はなかなか見あたりません。国内では今西先生が偉大すぎて批判しにくい風土があるとかで、かえって今西さんの説をだれも発展・継承することなく放置されているようにもみえて、ちょっとばかり残念です。そんななか、『今西進化論批判試論』(柴谷篤弘)が、少し古い本ですが、今西進化論を検証しています。批判と言いながら、ネガティブな批判ではなく、今西進化論とダーウィン進化論を整合させようとしています。ダーウィン進化論も、遺伝子など研究が進むにつれ、バージョンアップした形で継承されています。すると、ダーウィンも今西さんも同じことを言ってるじゃないか、と。
素人目にも、進化についての素朴な疑問は、次の2点です。
(1)だんだん変異していくなら、グラデーションのように、「進化途上」の生物が現存したり、化石が見つかったりするはずなのに、それがないのはなぜ?
(2)進化には方向があるのか、ランダムなのか。ランダムなら、生態系が混乱しない?
ダーウィンも今西さんも、遺伝子がわかっていなかった時代の理論であり、現在ではかなりうまく進化を説明できるようになっているそうです。
この(1)について、『今西進化論批判試論』では、カタストロフィー理論が紹介されていて、「進化も、いつでも必ずしも同じスピードで、ゆるゆると変化が起こっていたとばかり考えなくてもよく、ある時期に急に変わってもいいことになる」とのことです。このあたりは、そのまま社会の動きの理解に応用できそうです。
では、一気に変わる前に何が起きているのでしょうか? それが、(2)であり、見えにくい社会転換の素地であり、『学校は負けに行く場所。』『仕事は楽しいかね?』の共通テーマでもあると思うのです。
ん〜、もう一度本を読み返したくなりました。