1964年生まれの私が幼い頃から学生時代にかけて、日本は「もはや戦後ではない」と、すさまじい経済成長を見せ、戦後の焼け野原からあっという間に世界第2位の経済大国にのし上がりました。そのターニングポイントが、1964年の東京オリンピックであり、1970年の千里万博でした。(いま日本は、「古き良き時代よ、もう一度!」モードですね)
バブルがはじけるまでは、大量生産・大量消費の世の中で、割り切って言えば、みんなが同じテレビ番組を見て、同じコマーシャルを見て、同じ商品を買って、同じ方を向いて同じことをしていました(もちろん、個々にみれば、そんなことは言い切れませんが)。日本以外の先進国も、おおむねそんな感じでした。
そんな世の中では、とうぜん、テレビコマーシャル、宣伝、広告が大きな力を持ち、組織力、資金力が強い力を持ちます。そこで、「いい大学に入って、いい会社に入って、いい暮らしをする」生き方に「みんなが」あこがれていました。「田舎暮らし」なんて言葉は存在せず、そんなものを良いと思う人もいませんでした。お金が力。バブル期にはそれがさらに顕著となります。今の若い世代には想像も付かないでしょうが。狂っていましたね、今から見れば。でも、「あのバブルをもう一度!」と願ってやまない人たちも今なおおおぜいいます。
さてさて、1990年代に入り、社会が大きく変わります。インターネットの出現によって変わったのではなく、その前から変化が生じていました。
競争、経済、お金というキーワードがやや力を弱め、それまではあまり世の中で使われなかった言葉を見かけるようになりました。民間で見かける頻度が上がってから、中央官庁から発する情報にも見られるようになりました。
いろいろありますが、筆頭は「多様性」です。あと、共生、循環型社会、持続可能な社会、個性。1995年の阪神大震災は、ボランティア元年とも言われますが、当時はインターネットはほぼありません。インターネットが後押ししたのではなく、パラダイムが変わりつつあった流れに生じた動きと、私は見ています。
「普通でないこと」が市民権を得ていきます。治療の必要な疾病とされてきた「登校拒否」が、「誰にでも起こりうること」とされ、「不登校」という呼称に改められたのもこの時期です。差別用語にも厳しくなりました。「普通ではない人たち」を「普通」として扱うことが進みました。となると、普通とか、世間とかいう概念が揺らいできます。
みんなが同じであろうとする田舎の慣習を嫌い、田舎の若い世代の流出が加速し、反対に、田舎の慣習など知らない都市住民が「田舎暮らし」にあこがれる。そんな動きも加速します。そう考えると、生半可な村おこしや地域活性が意味を持たないのは自明の理です。
こういう世の中の動き(世界中で起きています)を総括すれば、「多様性の時代」と言えるのではないかと思います。
個の存在が大切になり、個を縛る枠組み(国家とか、地域とか、会社とか)が力を減らしつつあります。それをインターネットが加速させています。枠組みが薄らぐと、グローバリゼーションが進行しますが、個を抑えるようなグローバリゼーションには、抵抗が生じます。イギリスのEU離脱などはその典型ではないかと思います。政治的にいろいろ解説できますが、大きな目で見ると、EUが個を抑える体制である以上、発展も持続もないように見えます。
『学校は負けに行く場所。』『仕事は楽しいかね?』の2冊に共通する「偉大なテーマ」は多様性です。
世間一般に、多様性とは、「いろいろなものが共存している状態」であると考えるでしょうが、それだけでは、上で概観した世界の動きを読めません。多様性を「静」ではなく「動」として、ダイナミックに捉えなければ、世の中の動きを捉える概念にはなりません。私は、なんとなくそのことを、ぼんやりと思い続けてきましたが、たまたまこの2冊に出会って、ひらめきました。ひらめいた、というより、自分の中にもやもやあったものが整理され、形になった、という方がよさそうです。少なくとも、この2冊にそのようには書かれていませんし。
多様性は「動的」平衡によって保たれる。生態学では大切な概念ですが、実社会では「静的」な多様性が好まれる気がしています。
さすがのご指摘です。じつは、次の投稿で、そのことにふれようと思っていました。
多様性と聞いて静的なイメージがなかったので、そこにちょとへえ〜っですが、好まれるということは、結局そうではないのなら、動的なのですね?では、それはどういうこと?と思いつつ、次に進みます。
イメージの持ち方は人それぞれでしょう。私が多様性という言葉を定義しようとしているのではなく、多様性ということばを通して私が個人的に思うところを書いています。
「動的」なのですが、もう少し言うと「変化的」です。
なるほどね。私はどうしても答えを見出そうとしていたようです。答えなんかないのに。
私たちは、答えがないというと、不安になります。何かにすがらないと怖いです。でも、絶対という答えはどこにもないでしょう。「絶対に正しい答え」があると思うと、いろいろ具合の悪いことが起きてしまいます。「答えがない」のが人間には耐えられないとしたら、「答えは常に変化している」でもいいと思います。(あまり変わらないか)