シンギュラリティで描かれた人体の未来、なんか奇妙に感じませんか?
病気がなくなるのは素晴らしいことに違いないし、人類の能力を向上させることも素晴らしいことに違いありません。そんなことするな!今のままがいいんだ!という発想は、変化を止めることになり、危険です。進化と言ってもいいけど、とりあえず変化としておきましょう。
我々は原始人のままでいたほうがいい、という人はめったにいないでしょう。
我々は中世(平安時代あたり)でいたほうがいい、という人もめったにいないでしょう。ちなみに、平安貴族の寿命は30年ぐらいだとか。庶民はさらに短いかも。すると、「おまえはすでに、死んでいる」(←もう、ええっちゅうに!)
我々は近世(江戸時代あたり)でいたほうがいい、という人も、めったにいないでしょう。持続可能な社会のモデルとも言われますが、現実にはなんども飢饉に襲われ、相当の餓死者がでています。
我々は戦前の文明でいた方がいい、という人も、少ないでしょう。テレビないよ。電気も電話もいきわたっていないよ。毎日薪でご飯作る? 冷蔵庫ないよ。アイスクリーム食べられないよ。
我々は昭和(戦後)でいたほうがいいという人、少しはいるかな。スマホないよ。インターネットないよ。携帯電話ないよ。ガンはほぼなおらないよ。米ソの冷戦で核戦争の危機におびえていたし。
なんのこっちゃない。文明の進歩を止めることを望む人なんて、まず、いません。
それでも、いままでの進歩と、今後の進歩は何かが違うように感じます。「ポストヒューマン」という言葉があります。「人類の次に来る人類」です。つまり、生物の進化が生じ、人類という種が変わることを意味します。それが、すぐ目の前だというのです。
現人類と何が変わるかというと、人類とテクノロジーの一体化のようです。
[008]で、AI(人工知能)の強さは、エラーを無限に試行し、答えを改善し続けるという学習機能の超速化にあるといいました。そもそも人間の知能は、自然の摂理であるところのチャレンジ原理を自らの意思で実践してきたことにあるでしょう。そのチャレンジをどんどん加速させることで、急速に文明を進化させました。
ところが、テクノロジーと一体化することで、人類はチャレンジをテクノロジーにゆだねてしまい、自らはチャレンジしなくなる、ということのように見えます。人類は失敗やエラーから解放され、チャレンジによって得られる果実だけ、いいとこどりをしようというのでしょうか。現代人の効率至上主義、経済至上主義からすると、「素晴らしい未来」なのかもしれません。
チャレンジしない存在は、自然界と相容れず、この世に存在がなくなるのではないかと危惧します。猛烈なチャレンジを請け負う人工知能は猛烈に進化し、チャレンジをやめてしまった人類は、消える。いやいや、一体化すれば人工知能のチャレンジが人類のチャレンジそのものなのだ、と言うかも知れません。
「人体3.0」は、命、生きることを改めて考えさせます。そのようなあり方を、私たちは望むのだろうか。それで幸せになれるのだろうか。
霊魂の不滅を前提としても、霊魂と、霊魂+肉体とは、あきらかに違います。肉体があってこそ、私たちは失敗をすることができます。失敗をするがゆえに、喜びや悲しみを味わい、豊かな人生を送れます。失敗とは、チャレンジのことです。チャレンジは、おおむね、失敗とイコールです。たくさんの失敗をすることで、ごくまれにうまくいくこともあり、そうやって道を見出し、進んでいきます。世界中、たいがいの人生訓はそのように説いています。
現代は、失敗やエラーを避けたがります。効率を追求するとは、そういう思考でしょう。学校教育でも、どんどんその方向に進んでいます。資本主義は、まさに効率を求めます。かといって、世界で実験された共産主義は、資本主義以上に失敗やエラーを排除しました。だからうまくいかなくて当然です。
独裁政治、全体主義も、失敗やエラーを極端に排除するので、うまくいかなくて当然です。
資本主義は続かないでしょうか? 強欲グローバリゼーションが世界を席巻すると行き詰まるでしょう。失敗やエラーを活用する「修正資本主義」が主流となれば今後も続くかも知れません。
民主主義はどうでしょう? 現在の民主主義は、多数をとれば正義という流れが強まり、多数をとるために多様性を排除する傾向があります。となると、行き詰まるでしょう。「修正民主主義」となれば、続きそうです。
失敗やエラーを排除する方向の果てに、人体2.0、あるいは人体3.0があるように見えます。だとすれば、人類にとって福音とは言いがたい。テクノロジーの進化は止められないし、多くの人は進化を望むはずです。人類の岐路なのかも。