正解のない教育

何のための教育であるかを考えるなら、人生を豊かに生きるため、という答えになるはずです。
人間は1人では生きられず、好むと好まざるとにかかわらず、社会の中で自分のポジションを見いだし、社会と関わり合って生きていくしかありません。

学校教育は、かつては(少なくともパパが子どもだった頃までは)社会と寄り添っていたはずでしたが、社会が激変しているのに学校教育は旧態依然として変わらず、両者の乖離が危機的状況となっています。官僚がたたかれている事実だけ見ても、学校教育のエリートが社会からかけ離れてしまっていることがうかがえます。

社会、すなわち実務、すなわちビジネスから、教育を眺めてみる視点が大切ではないかと思うのです。

そんな中、日経BPに「急募!考え抜く社員」という連載が始まりました。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090907/204181/

おもしろいですね。我が意を得たり!
各記事に共通している視点は、「正解のない社会でどう生きるか」でしょう。まさにこれこそが、実務であり、生きる知恵であり、現実の生活に他なりません。かたや、学校教育では、常に正解を教えます。「常に正解がある」という発想さえ、幻想と言えるのではないかと思います。このことがいかに致命的であるか、すでに実務の世界からは警鐘を鳴らし続けているにもかかわらず、学校教育は脳天気なままです。

これこそが、私がホームスクーリングを選択している理由に他なりません。

夜の散歩というようなことを、夜の散歩がてら、ハルに語りかけました。小学3年生にはかなり高度な話題でしょうか。そんなことないです。学校教育から見れば高度かも知れませんが、生きる力からすれば、平易な話題です。正解が常にあるのだという価値観に固執するがゆえに、高度に見えるだけでしょう。

じっさいのところ、ハルはあっさりと理解しました。それは、ハルが投げかけてきた疑問をみれば明らかです。
「おとなたちは、わかっているならば、どうして学校を変えられないの?」

政治家も、官僚も、先生も、学校教育のエリートに他なりません。そしてまた、具合の悪いことに、政治も行政も先生も、社会から離れた世界で生きています。正解があるという幻想を信じて追い求めてきて、正解があるという幻想の上に地位を築いてきた人たちが、正解のない現実を受け入れられるわけがない。

そのことさえも、ハルはあっさり理解したようです。8歳のハルが頼もしく見えました。

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