基礎と応用

夜の散歩は、男の時間。

こないだは、パパから基礎と応用の話を切り出しました。

夜の散歩で語り合うパパとゴン太。肝試しじゃないってば。

夜の散歩で語り合うパパとゴン太。肝試しじゃないってば。

ゴン太は、計算とか、漢字とか、問題集とかが好きではありません。っていうか、ほとんどの子どもはそうですね。

いっぽうで、読書とか、工作とか、自然観察とか、世の中の仕組みとか、そうね、物事の仕組みを考えることはめちゃくちゃ大好きで、パパとママもその好奇心にはできるだけこたえてやりたいと思いつつ、すでに親がついて行きかねる状態も。

ゴン太が苦手な勉強は、「基礎」と言われる部分です。基礎、基本が大事と、昔も今も言われます。そのことに間違いはありません。

かたや、パパが若い頃、「日本人は応用がダメだ」とよく言われました。ゆとり教育よりはるか昔、詰め込み時代の話です。応用というのは、何も難しいことではなく、自分が知っていることを組み合わせたり工夫したりして、新しいことを見いだすことです。

基礎、基本をいくらばっちりやっても、応用ができるようになるとは限りません。定期テストはよくできるが入試はダメ、という子は多いです。基礎、基本だけで必然的に応用ができるなら、こういったねじれは生じないはずです。しかし、現実には、そうではない。

かといって、基礎、基本をおろそかにして、応用まがいにかぶれると、テクニックに走ります。これまた、応用力が身につきません。

学校教育は、自分で考えるとか、自分で工夫するとかいうことが、欠落しています。(かなり断定的な表現ですが、総論として、間違ってはいないはずです)

学校教育で育つ子たちが、応用を苦手とするのは、避けがたい事実でしょう。

ゴン太にこう語ると、ゴン太は、「なんで応用が苦手なの? こんなにおもしろいことはないのに!」とビックリしていました。

自分で考えたり、工夫したり、失敗したり、やり直したり、という作業は、とても知的で、インテリゲンチャで、刺激的で、魅力的です。なのに、学校教育は、答えも過程も用意し、子どもにそれをトレースさせようとします。意欲をなくすのは、必然でしょう。

では、応用力をつけるのに何が必要か。ありあまる自由な時間と、ありあまるくだらない素材と、結果を求めないおおらかさでしょう。創造には、失敗がつきものです。数限りない失敗をさせてあげねばなりません。また、答えに最短のキットを与えては無意味。くーだらない素材をいっぱい与え、無意味を組み合わせて意味をつくり出す。無駄、無理、無茶。3つの無が、応用力の基本です。

わが家はホームスクーリング。まさにこの3つの無を実現しています。それは、お金のかかることでもなく、特別なスキルが必要なことでもない。与えすぎると堕落する。欠乏が子どもを育てる。ハングリー イズ ザ ベスト!!

今の日本人、とくに日本の学校教育に最も欠けている、致命的な要因は、ハングリー精神ではないか。あまりにも与えられることに慣れすぎて、与えられることを当然と思いすぎているから、とめどなく競争力を失い、国力が陥落していることさえ認識できないほど惨憺たる状況になってしまっている。

とはいえ、日本人の全てがダメなのではなく、そういうハングリー精神を持っている人、持とうとしている人、持たねばならないと意識している人たちは、確実に増えているようです。日本は、今後、まだまだ落ちるでしょう。しかし、どこかでハングリー精神を取り戻し、復興を遂げる日がきっと来るでしょう。わが家の子どもたちには、ハングリー精神を育てたい、と思っています。それこそが、「応用」の原点だと思います。


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