古代出雲王国をめぐる旅(8)
3日目のつづきのつづきです。
先に訪れた造山古墳群含め、ここら(安来市荒島)周辺には弥生時代から古墳時代にかけての墳墓が集中しており、その内の、「造山」「塩津山」「宮山」「仲仙寺」の4カ所は公園として整備されています。これらを総称して、「古代出雲王陵の丘」と呼ぶそうです。
次は「塩津山墳墓群(しおつやまふんぼぐん)」です。
こちらは山陰道のトンネルの上に古墳があります。坂をのぼってすぐのところに「塩津山1号墳」があります。
1号墳が作られたのは弥生時代の後期から古墳時代へと入っていく時で、古墳の形も、四隅突出型墳丘墓から方墳へと形が変わっていく様子がわかります。
1号墳には全体ではなく、部分的に貼られた貼石の様子が再現されています。
上には出土した土器などのレプリカが。。下には山陰道が走っています。この時は気づきませんでしたが、ここから次の目的地が見えていたようです。
1号墳のすぐ隣にあるプリンのような形の2号墳(円墳)。2号墳から見た1号墳です。
もう少し奥に行くとみられる古墳もあったようですが、諸々の事情で下へおりることにしました。おりてすぐの所に塩津神社があります。
神社の境内脇に「塩津神社古墳(しおつじんじゃこふん)」があります。こちらは墳丘が失われ石棺式石室(せっかんしきせきしつ)のみ残った状態が見られます。
ここから鳥取県米子市へと移ります。次は「粟嶋神社(あわしまじんじゃ)」です。
画像にある説明板によりますと、こちらはもともと中海に浮かぶ小島だったようです。江戸時代中頃に地続きとなり、山全体をご神体とされたとのこと。(現在、明神山と言われるこの山が先に立ち寄った塩津山1号墳から見えたみたいです。)
現在は187段のぼった山頂に本殿があり、少彦名命(すくなひこなのみこと)が祭神として祀られています。
下記の神社の沿革には、伯耆国風土記の逸文によると、少彦名命が粟の穂にはじかれて常世国に渡られたので粟嶋と名づけたとある、とあります。
日本神話にあるオオクニヌシとスクナビコナの話の元になった地ということです。
この階段、けっこう急ですが、昨年身延の久遠寺に行った私たちですので、そんなに驚くほどでもありません。
登りきりると、立派な随身門。そして拝殿。
本殿裏から見える景色。草が生い茂って見えづらいですが「米子水鳥公園」と中海、安来方面が見えました。
下へとおりて、八百比丘尼の伝説がある「静の岩屋」へ向かいます。実は粟嶋神社へ来たのはこちらが本題なのです。
鳥居の奥の柵の中が洞窟になっています。説明板にある伝説とは全く違う重大な事件が古代の出雲王国におきました。日本の歴史を変える大事件だと言っていいと思います。そのことを知ってこの地を訪れると大きな感慨にとらわれます。右の画像は洞窟から見える景色です。
次でいよいよ最終回となります。たぶん。