主体的にいられるかどうか

私は今のインターネット(SNS)を否定しているのではありません。中には上手にSNSを使って自分の生き方を表現されている人たちもいるなぁとドキリっとすること、あります。
ただ何にでも言えることですが、皆が皆その「あり方」が合うわけではない。

私が世界を広げてくれるはずだったインターネットを狭く感じるようになったのは、だれもが簡単に情報発信できるようになって、瞬く間に情報量も増えたために、キュレーションという言葉がでてきたあたりかもしれません。

キュレーションとは…(コトバンクより引用)
IT用語としては、インターネット上の情報を収集しまとめること。または収集した情報を分類し、つなぎ合わせて新しい価値を持たせて共有することを言う。
 

自分で情報を探すのが苦手な人や時間がないという人はキュレーションやキュレーションメディアが役に立つこともあるでしょう。

ただ、私は「情報」は自分で選びたいんです。だれかが選んでくれた情報はいらないんです。

なのに、今のインターネットはどこも(特にSNS)は、勝手に情報を選んで私たちに見せてくれています。どんな情報にも対等に接することができたインターネットのはずなのに、自分が接する情報を誰かが選んでいるのです。ネット上で接することができる人間さえもだれかが選別している。そしてどのように接するのかさえ。

その中にどっぷりつかり込んでいたら、そんなものだと思ってしまうしくみになっている。若者たちが疑問を持たなくても不思議ではありません。

キュレーションメディアが悪いのではなくて、アクセス数の少ない個人のブログやサイトと対等な情報だと受け止めれば何の問題もないでしょう。

フォロアーや友達の数が多い人の情報とフォロアーや友達の数の少ない人の情報が対等だと考えれられれば問題ないんです。

私にとって重要なのは、主体的にインターネットを使えるかどうかなんです。

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家入一真さんの『さよならインターネット』を読んで感じたことを3回に分けて綴ってみました。この本は共感する部分がかなり多いけれども、すべて共感というわけでもないです。特に最後の方など。そして家入さんのTwitterなども見てみたけれど、あんまり興味ないです。家入さんはプラットフォーマーとして常に提供する側の立場であるからなのかな、とも思う。

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