自発的意思を持つためには、
この3月で第一子がいよいよ義務教育を終了します。
我が家の場合ホームスクーリングなので中学校卒業といってもとくに何か特別なことがあるわけでもないのですが、、
家族で今後のことについて話をする機会が増えています。
経験や体験が大切に言われることが多くなっているように思う。でも、経験たくさん積むことが子どもにとってよいことなのかどうかというと、とても疑問がある。
それは世の中の人をみても、歴史上の人物をみても、経験の内容や種類と人生の充実度(平たく言えば、幸せ)はあまりリンクしていないように見える。
『哲学図鑑』という本に、こんなエピソードがでていました。
「ソクラテスの生涯は生まれた街をほとんど出ることのなかった人です。もしあちこち出かけていろいろと見聞を広めることが豊かな人生であるとしたら、彼の人生は豊かなものだとは言えません。しかしソクラテスの生き方は、自分にとって本当に重要なことを確保していたら、そのほかのささいなことなど、どうでもいいのだということを教えてくれるようです。」
これがヒントになり、夫婦でいろいろと話をしました。
第一子に旅をさせるなんていうのはどうだろう…と思ってもみましたが、どうもそれが私たちの望む本質とは違うように感じる。
次に考えたのは、親が旅をさせようと思うのがおかしいんじゃないか、もし、第一子が自分から旅をしたいと強く思いたったら、親がどういおうと関係ないだろうし、それを実行するために何でも自分でやってしまうだろう。となると、大事なのは自分の主体的な意思かも知れない。そうしたら、自分の主体的な意思が育つためにはどうしたらいいんだろうか…。
そのためにホームスクーリングを選択しているのは間違いないのだけれども、逆にいうとホームスクーリングさえしていれば主体的な意思は育つのか、というと、そうでもない。
学校に行っていれば主体的な意思が育たないのではないか、というと、そうでもない。
では、子どもは生まれながら主体的な意思を持つのか、というと何とも言えない。
たとえば、子どもに全く自由な環境を与えれば、主体的な意思を強く持つようになるのかというと、一概にそうでもない。
また戻って、世の中の人や歴史上の人物をみると、環境や育ち方と、主体的な意思はあまり関係はないようにみえる。
主体的な意思を持つためには、何かキッカケが存在することが多いように思う。
そのキッカケというのは、得てして困難という類いのものだろう。それを何とかしたい。
「どうしてこんなことになるのだろう…、どうすればいいのだろう…、なんで?」というあたりから主体的な意思が生まれてくるように思う。
困難な状況にいれば、すべての人が主体的な意思を持つのかといえば、そうでもない。
困難な状況のない人が存在するのかというと、そうでもない。少なくとも人間は病気や死から逃れることはできない。
どんなにお金があろうとも、どんなに力があろうとも、人間関係が思いのままにいくこともない。
困難において必要なことは、“問い”ではないか?と。ソクラテスは“問い”続けた。たぶんそれだけだった。
困難は具体的に何かの状況を言うとは限らない。たとえば、「私はだれだろう」「何で生きているのか」という疑問を持つことも、困難のうちではないか?
とくに思春期の年頃にはおおかれすくなかれこういう疑問を持つだろう。おとなになったら、そんなバカみたいな疑問は忘れてしまう。
でも日常で何の困難もなく生きている人はたぶんいないだろう。
そうして考えてきたら、自分の主体的な意思を持つきっかけは、だれにでもどこにでもいつでも存在する。
そこから主体的な意思をもつに至るためには、どんなステップがあるのか、
自発的意思を持つためには→逆境・どたんば・困難が必要→どんな境遇でも困難がないという人はいない。→困難に向き合うためには、時間が必要。問いを持つ。
学校で育つのか?→教師や親が先に対処(子どもに困難を与えない)
・忙しく子どもたちを追い立てる。困難に向き合わせない。
自発的意思を持つためには、場所も経験も環境も関係ない。では、わが子にむいて親として何をしてあげられるだろうか?と考えてみて、それは【自発的な意思】とは違うと気がついた。
自発的な意思を持つということは、自分に責任を持って自分の人生を自分が背負う、ということになってしまう。
ある意味でこれは残酷かもしれない。子どもが自ら問いをたてて問いを深めるということは残酷。
身近にいる大人がその手助けをしてあげるのではなくて、まず大人が先に問いをたてて問いを深める。それが「手助けをしてあげるということ」ではないか。
参考図書: 『哲学図鑑』(誠文堂新光社・監修・小川仁志) 『残酷人生論』(毎日新聞社・池田晶子) |