雲南・松江へ(5)

半年ぶりの更新です。なかなか更新できないので、画像多め説明省略ですすめます。

☆新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響でお出かけ自粛中のため、一昨年(2019年)の旅の記録です。☆

前回のあとは、須佐之男命がヤマタノオロチを退治し、その頭を埋めたといわれている八本杉へ行きました。

住宅街の中に大きな杉の木が立っていました。

八本杉

続いて八本杉の近くにある斐伊(ひい)神社です。

斐伊神社の一の鳥居

斐伊神社の拝殿

説明板には

『出雲国風土記』には2つの樋社が記されているが、その1つが斐伊神社に比定される。もう1社の樋社(同社坐斐波夜比古神社)は八本杉のあたりにあったと考えられているが平安時代中頃には斐伊神社に合殿されていたと考えられている。主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)、伊都之尾張命(イツノオワリノミコト)で、合殿された斐伊波夜比古神社の祭神は樋速比古命(ヒハヤヒコノミコト)のほか二神となっている。斐伊神社は江戸時代には所在地の小字をとって「宮崎(埼)大明神」とよばれていた。

〈出典〉「木次町の史跡と文化財」(木次町教育委員会)

とありました。埼玉の氷川(ひかわ)神社のルーツにあたるのだとか…。

次に訪れたのは、尾留大明神旧社地(おどめだいみょうじんきゅうしゃち)です。

説明板には

 八塩折の酒によいつぶれた大蛇を退治した須佐之男命は、この御立藪で大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名づけて天照大御神に献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮に祭られている。この御立藪(現在は畑地)は須佐之男命と稲田姫を尾留大明神と称し広く崇拝されていたが、斐伊川の氾濫により、延享元年(一七四四)約二〇〇メートル南方のここ大津の丘陵中腹に移転。明治四年に御代神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代神社(南方五〇〇メートル)ととなっている。

と書かれていました。

続いて、八口(やぐち)神社です。

雲南市には木次町にも八口神社(印瀬の壺神)があるのですが、今回訪れたのは加茂町の方です。

八口神社の鳥居と拝殿

 出雲国風土記には、「矢口社」と記載されています。また延喜式には「八口社」と記載されています。
須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇の八つの頭を斬られたにより八口大明神といわれた。
また、大蛇が八塩折の酒に酔い草枕山を枕に伏せっているところを、男命(ミコト)が矢をもって射られたので矢代郷、式内社矢口社という。
赤川は、安政年間まで草枕山の東南方を迂回して斐伊川に注いでいたが、度重なる水難のため山を真二つに切り開き流れを変え、現在に至っている。
主祭神 須佐之男命

赤で色付けた部分が草枕山があったと思われるところ

続いて、神原(かんばら)神社と神原神社古墳です。

一の鳥居と二の鳥居

随身門

灯籠と拝殿

1972年、赤川の河川改修工事に伴い神社移設のために調査を行ったところ、古墳の中から竪穴式石室や副葬品が出土されました。とくに景初三年銘の三角縁神獣鏡が有名です。

移設前の神社と古墳

参考サイト:神原神社古墳の被葬者はだれ?(これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト))

ちなみに、大元出版の本ではこちらの古墳の被葬者が特定されています…。

現在は神社の横に竪穴式石室が移築・復元され、見学できるようになっています。

石室の中にも入れます

神原神社古墳付近の橋のたもとに大きな勾玉が。

勾玉の穴には銅鏡

つづく。次で最後です。

 

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