奥出雲へ(3)
☆新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響でお出かけ自粛中のため、去年の旅の記録です。☆
素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、高天原で暴れて、地上へ追放されました。そしておりてきたところが、ここ、奥出雲です。そこに泣きじゃくるクシナダヒメがいました。わけをきくと、今夜、ヤマタノオロチに食べられるのだとか。スサノオはたくさんの酒をヤマタノオロチに飲ませて酔わせておいて、8つの頭を切り落とし、みごと、姫を守りました。そして、スサノオとクシナダヒメは、めでたく結ばれました。
奥出雲は良質の砂鉄がよくとれ、古代からタタラ製鉄が盛んでした。ここを流れる斐伊川は支流が8本あり、ヤマタノオロチは、斐伊川に例えられているのではないかという説もあります。
奥出雲には、スサノオやクシナダヒメにまつわる神社や伝説が多く、古代にタイムスリップするかのような感覚にとらわれます。
奥出雲の旅の2日目に続いて訪れたのは「伊賀武(イガタケ)神社・八重垣神社」です。
坂は緩やかですが長い階段が続きます。
当社の創立年代は不詳であるが、現本殿は1500年代に森脇山城守家貞や三澤為清らが修復・造営したとの記録があるので氏神社としては古社に属する。速須佐之男神(スサノヲ)の御子神である五十猛神(イソタケル)と武御名方神(タケミナカタ)を主祭神としていたが、明治39年(1906)に上布施村の「若杉神社」、翌年に前布施村の「西尾神社」を合祀したため、併せて九柱の神々をお祭りした。明治40年には境内末社として「八重垣神社」を「八頭(ヤト)」から移築した。(以下略)
そしてそのすぐ横に「八重垣神社」があります。
しめ縄の太さが「伊賀武神社」と違うのは、なんでだろう??
「八重垣神社」は松江市にある方が有名な気がするのですが、こちらの神社について詳しく書かれたものがありました。
古事記(712年)所載の須佐之男(スサノヲ)命の「ヲロチ退治神話」は、この奥出雲町佐白(サジロ)地区を中心にして色濃く伝承されている。中でも出雲国風土記(733年)に出てくる「比比理(ヒビリ)村〈現在の八頭(ヤト)地区〉」の「沖(ヒビ)る」という古語は、「舞い上がる・高く飛び立つ」の意で、明らかにこの地に空中をさ迷う龍系の「八俣大蛇(オマタノヲロチ)」が住んでいたことを物語っており、八頭地区に点在するヲロチ退治にかかわる多くの古跡の信憑性が声高に取り沙汰されている。その古跡の中心となる当社は、辛谷(ヒノタニ)村から神野(カンノ)村や比比理村にかけての守護神として奉斎され、スサノヲ命とご縁を結ばれた櫛名田比売(クシナダヒメ・稲田姫)命を主祭神とした。その後元禄時代に須佐之男命・足摩椎(アシナヅチ)命・手摩椎(テナヅチ)命を合祀して現在に至っている。
重層で見事な造りの現本殿は、寛文元年(1661)に日御碕神社の宮大工が建造したと伝えられ、明治40年(1907)11月、合祀令により現社地に移築した。旧社地には「八重垣大神」と刻んだ石碑を建て、元宮として崇拝している。昭和8年(1933)、松陽新報社(現・山陰中央新報社)から仁多郡ナンバーワンの神社に認定された。
祭日は4月9日である。平成27年(2015)錦秋 宮司 石原道夫識
車ですぐのところに「元八重垣神社跡」があります。
説明板には
古事記、日本書紀のヤマタノオロチ伝説神話に登場する、スサノオノミコトとイナダヒメが結ばれたここ奥出雲佐白(八頭)に鎮座した八重垣神社は、寛文元年(1661年)に「稲田大明神」として建造されました。
その後「八重垣大明神」「八重垣神社」と改名され、明治40年(1907年)に現在地(伊賀武神社境内)に移築されました。
我が国夜明け前、各地に宮づくりをしたルーツがここにあり、周辺にはオロチがいた「比々理村」、イナダヒメの両親が住んだ「長者屋敷跡」「鏡ヶ池」「元結掛松」など数多くの神話伝承地があります。
とありました。
元宮までの階段と反対側にある「元結掛けの松」。
また、ここから少し歩いたところに、
「長者屋敷跡」があります。
国つ神大山津見神の子であるアシナヅチとテナヅチの夫婦神(地元では「長者」という)が娘のクシナダヒメらと住んでいた屋敷跡と伝えられています。
雲陽誌に、「古脚摩乳手摩乳(こあしなづちてなづち)の住たまふ跡なり、里俗二神を長者といふ、斯辺(このあたり)に馬屋谷・すくも塚・泉谷なんといふ所あり」と記載されています。
ここには、アシナヅチとテナヅチが立て置いた杖が根付いたとする福竹(ほていちく、立身竹ともいう)という小竹が生えています。古くは、この伝説にあやかり、長寿や幸運を願って、竹の葉をお守りとする者が多くいたといいます。また、「連理椿(れんりつばき)」という白椿の大樹があったと伝えられ、現在も受け継がれて、椿が植えられています。(以下略)
またすぐ近くには「鏡ヶ池」もあります。
説明板には
アシナヅチとテナヅチの娘であるクシナダヒメが、この池を鏡に見立てて髪を整え化粧など身づくろいをしたところと伝えられています。
また、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治するときに、この水で、度の強い八塩折の酒を醸したと伝え、昭和の中ごろまで酒造りの清水として使用されていたこともありました。
この清水は泉谷よりの湧水で、昔からどんな旱であっても枯れることがなく、斐伊川に注ぐ八頭川の源流の一つとなっています。
この周辺地を「八頭」といい、この泉の畔に並べられた8つの酒甕を飲み酔いしれたヤマタノオロチをスサノオがすかさず飛びかかり、苦しみ火を吐きながら狂走した「樋ノ谷(火ノ谷)」や、いよいよ斬り取られ、岩に伏したとする「岩伏山(雲陽誌に岩布施山)」など、ヤマタノオロチ退治神話に関連する地名を多く残しています。
とありました。
この後、奥出雲から木次へと移動します。
ヤマタノオロチ伝説由来地は木次町にもたくさんあります。
斐伊川上流にある、ヤマタノオロチが住んでいたといわれる「天が淵」。
川沿いには遊歩道がありました。
天が淵の近くにある「河邊(かわべ)神社」。
クシナダヒメが懐妊されたとき、産湯に使う良い水を探し求め、河邊神社を御産所に定められたと伝えられているそうです。
ここで、2日目終了です。お疲れ様でした。