2016年2月 | 今日もいい天気のブログ記事

この3月で長男がいよいよ義務教育を終了します。

我が家の場合ホームスクーリングなので中学校卒業といってもとくに何か特別なことがあるわけでもないのですが、、

家族で今後のことについて話をする機会が増えています。

 

経験や体験が大切に言われることが多くなっているように思う。でも、経験たくさん積むことが子どもにとってよいことなのかどうかというと、とても疑問がある。

それは世の中の人をみても、歴史上の人物をみても、経験の内容や種類と人生の充実度(平たく言えば、幸せ)はあまりリンクしていないように見える。

『哲学図鑑』という本に、こんなエピソードがでていました。

ソクラテスの生涯は生まれた街をほとんど出ることのなかった人です。もしあちこち出かけていろいろと見聞を広めることが豊かな人生であるとしたら、彼の人生は豊かなものだとは言えません。しかしソクラテスの生き方は、自分にとって本当に重要なことを確保していたら、そのほかのささいなことなど、どうでもいいのだということを教えてくれるようです。

これがヒントになり、夫婦でいろいろと話をしました。

 

長男に旅をさせるなんていうのはどうだろう…と思ってもみましたが、どうもそれが私たちの望む本質とは違うように感じる。

次に考えたのは、親が旅をさせようと思うのがおかしいんじゃないか、もし、長男が自分から旅をしたいと強く思いたったら、親がどういおうと関係ないだろうし、それを実行するために何でも自分でやってしまうだろう。となると、大事なのは自分の主体的な意思かも知れない。そうしたら、自分の主体的な意思が育つためにはどうしたらいいんだろうか…。

そのためにホームスクーリングを選択しているのは間違いないのだけれども、逆にいうとホームスクーリングさえしていれば主体的な意思は育つのか、というと、そうでもない。

学校に行っていれば主体的な意思が育たないのではないか、というと、そうでもない。

では、子どもは生まれながら主体的な意思を持つのか、というと何とも言えない。

たとえば、子どもに全く自由な環境を与えれば、主体的な意思を強く持つようになるのかというと、一概にそうでもない。

 

また戻って、世の中の人や歴史上の人物をみると、環境や育ち方と、主体的な意思はあまり関係はないようにみえる。

主体的な意思を持つためには、何かキッカケが存在することが多いように思う。

そのキッカケというのは、得てして困難という類いのものだろう。それを何とかしたい。

「どうしてこんなことになるのだろう…、どうすればいいのだろう…、なんで?」というあたりから主体的な意思が生まれてくるように思う。

困難な状況にいれば、すべての人が主体的な意思を持つのかといえば、そうでもない。

困難な状況のない人が存在するのかというと、そうでもない。少なくとも人間は病気や死から逃れることはできない。

どんなにお金があろうとも、どんなに力があろうとも、人間関係が思いのままにいくこともない。

困難において必要なことは、“問い”ではないか?と。ソクラテスは“問い”続けた。たぶんそれだけだった。

困難は具体的に何かの状況を言うとは限らない。たとえば、「私はだれだろう」「何で生きているのか」という疑問を持つことも、困難のうちではないか?

とくに思春期の年頃にはおおかれすくなかれこういう疑問を持つだろう。おとなになったら、そんなバカみたいな疑問は忘れてしまう。

でも日常で何の困難もなく生きている人はたぶんいないだろう。

そうして考えてきたら、自分の主体的な意思を持つきっかけは、だれにでもどこにでもいつでも存在する。

そこから主体的な意思をもつに至るためには、どんなステップがあるのか、

 

自発的意思を持つためには→逆境・どたんば・困難が必要→どんな境遇でも困難がないという人はいない。→困難に向き合うためには、時間が必要。問いを持つ。

学校で育つのか?→教師や親が先に対処(子どもに困難を与えない)
・忙しく子どもたちを追い立てる。困難に向き合わせない。

自発的意思を持つためには、場所も経験も環境も関係ない。では、わが子にむいて親として何をしてあげられるだろうか?と考えてみて、それは【自発的な意思】とは違うと気がついた。

自発的な意思を持つということは、自分に責任を持って自分の人生を自分が背負う、ということになってしまう。

ある意味でこれは残酷かもしれない。子どもが自ら問いをたてて問いを深めるということは残酷。

身近にいる大人がその手助けをしてあげるのではなくて、まず大人が先に問いをたてて問いを深める。それが「手助けをしてあげるということ」ではないか。

 

 

参考図書:

『哲学図鑑』(誠文堂新光社・監修・小川仁志)

『残酷人生論』(毎日新聞社・池田晶子)

 

 

普通のきょうだいよりも一緒に過ごす時間が長い我が家、いつも仲良くいてくれたらいいのですが、もちろんケンカもします。

それが今回はちょっと違っていました。長女と次女が三女を無視。いや正確に言えば、長女は無視で次女は適当に相手はするけれど三女よりも長女優先という感じで、結果的に三女が仲間はずれの状況が続いたのです。

あからさまに母である私の前でも三女をのけ者にしているので、当然嫌な気分になります。
それに私自身末子なのでどうしても末子の気持ち寄りになってしまう部分もある。なおかつ、子どもの頃のトラウマが甦ってきて、かばってしまいたくなる。

なので三女が泣きながら助けを求めに来ると、最初は冷静に話しを聞いているつもりでも、仕舞には、姉たちに嫌みを言ってみたり、脅し文句を言ってしまったり…。が、長女も次女もそんなことでは凹まないくらい年齢もあがってきた。はてさて、困った、どうしましょう~~

と思っていたので、父にふってみた。お父さんは有無を言わさず姉たちに「仲間に入れられないならそこで遊ぶな~」と一喝。姉たちは半分ふてくされながら子ども部屋に移動。姉たちだって、三女を仲間はずれしたくなる理由はあるのだろう。

そんな感じのまま食事の時間になり、長女と次女はムスっとしたまま、三女をにらむ。そこで父が長男にこういった。
「こんな身近で仲良くできないのなら、世界平和なんてくると思うか?国と国との戦争もこれと同じだぞ。きっかけなんてささいなこと。あっちがずるい、こっちがずるい、あいつが自分より上なのがにくたらしい…こんなくだらない理由から戦争になるんだぞ。」と。
ふだんから口癖のように“世界平和”を望んでいる長女には一番イタイ言葉だったかも。。

今回のケンカは長男には戦争について考える時のいい見本となった。

実は昨年9月の安全保障関連法の強行採決以来、長男は戦争と平和について深刻に心配するようになりました。「どう考えても戦争はばかげているのに、なんで戦争なんかするのか?」と度々父に質問していました。「そんな質問に簡単に答えられるくらいなら世界から戦争はなくなっている。」としか父も答えられません。
その流れでこの状況に遭遇したのです。

父は日頃から「私たちの心が戦争をつくっている…。誰かが勝手に戦争を始めて国民は被害者の立場だというのも一理あるとしても、それだけてなく、やっぱり私たち一人ひとりが戦争をつくりだしている…」「家族や友達、身近な人と仲良くできなくて、平和などあるはずはない」と子どもたちに言っています。

さすがに長男も長女も認めざるを得なかったようです。

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